『三国史記』 批判

 『三国史記』を参考にする際には、『三国史記』が作成された理由を考慮しなければならない。 『三国史記』は第17代高麗王の命令で金富軾が作った本である。 金富軾は金氏であり、新羅記録を中心に本を作っている。 しかし、『三国史記』で新羅史に次ぐ比重の多い記録は高句麗史である。 高麗は高句麗の一部の領土だけを持っていた。 それでも本人のアイデンティティを高麗だと思った。 なぜだろうか。 

高麗を建国した彼らの正体は中国人(楽浪人)だ。 中国人は古朝鮮が滅亡した後、平壌地域に楽浪郡(BC108-313)を建てた後、移住した。 そして313年に高句麗に吸収されるが、この時から楽浪人の卑劣さが始まる。 

高句麗の20代国王当時に内戦が発生した理由。 これは本来支配層である扶余系の種族を長い政治的プロパガンダとギスライティングを通じて没落させたものだ。 その後、楽浪系が高句麗を掌握し、平壌に首都を移す。 その後、王族系(扶余系)と中国系(楽浪系)の間に均衡を作るが、高句麗末期になると淵蓋蘇文という中国系が国を掌握する。 これが淵蓋蘇文が古朝鮮の人だと三国史記に作成された理由だ。 その後、扶余種族は渤海を建国するが、同様に中国系の移民により没落し、滅亡した。 (渤海後期になると、中国系の名字を持った将軍が登場する)。 以後、扶余種族は絶滅。

高句麗が滅び、平壌地域は新羅が占める。 彼らは持続的に新羅の支配層になることを望んでいる。 結局、935年に新羅が滅亡し、高麗が建国される。 短くは750年間、長くは991年間新羅は存在した。 普通、このような国家は滅びないが、異民族の中国人は新羅に愛情がなかったため滅亡。

その後、支配層である中国人が新羅の王族である金富軾に三国史記を作ることを命令する。 これを受諾して作ったのが『三国史記』である。 そのため、韓国では北方、高麗、高句麗、朝鮮が好きな人々が多いのである。 

ところで、金富軾は本当に新羅出身なのか? 実際、現代の金さんの由来は4つだ。 第一は新羅、第二は伽耶、第三は中国、第四は平民。 新羅の金氏は本人の祖先を金日製(134–86BC)と考えたが、これに関する最も早い記録は新羅の文武王(626–681)の墓碑銘である。

しかし、これは新羅と唐の友好のための、その時代のプロパガンダに推察される。 中国人たちはこのプロパガンダに喜び、歴史的高揚感を持った移民集団の集団移住が発生する。 もしかしたら、金富軾は新羅王朝を好んだ中国人移民者かも知れない。 金富軾の爵位は樂浪国開国侯である これを通じて、金富軾は楽浪系(中国系)集団と非常に親しかったと推測される。 

楽浪系は吸収した新羅系とともに高麗を建国する。 高麗は、国家内部では本人を皇帝国と記録している。 この理由は、高麗はオーストリア·ハンガリーの二重帝国のように、多民族国家であるからだ。 そして中国系(楽浪系)は新羅系と統合するためにプロパガンダ本を作る。 その本が『三国史記』である。 

そして金富軾は新羅系を中国系にするため、歴史的事実をあるものは削除し、あるものは組み合わせて本を記録する。 その結果、支配層である中国系に認められる歴史書となり、それ以外に中国系に不利な歴史書は除去される。 このような方式で1000年が経過し、唯一韓国に残った歴史書が三国史記と三国遺事である。


『三国史記』には娑蘇夫人に関する話が記されているが、ここからプロパガンダの痕跡を辿ることができる。

また、『三国史記』の著者金富軾が宋に行ったとき、彼は佑神館で女性を飼い、中国の昔の皇室の娘であり、彼女は夫なしで妊娠したと記録されている。 「彼女があなたの国の聖母だ」と聞いた。 当時、金富軾は初耳で不思議だと思い、三国史記に「臣又見大宋國信使王襄祭東神聖母文, 有“娠賢肇邦” 之句. 乃知東神則仙桃山神聖者也, 然而不知其子王於何時」と記録されている。 これが中華主義と関連があるという批判もある。 一然が後日『三国遺事』を建てる際、金富軾の話に注目し娑蘇夫人の話とともに伝説的な内容を追加した。

また, 『高麗圖經』という本に"東新聖母女"が登場する。 この本によると"東神"は高句麗の"柳花夫人"を意味する。 つまり、中国人は高句麗を吸収する際に使用した歴史的プロパガンダを新羅に再利用したのである。

金氏の中に中国系が存在するように、本来半島出身の姓の中でも中国系が存在する。 彼らは偶然、姓が似たようなもの(ex.新羅6)を利用してこの1000年間、半島に移民し、もはや区別が不可能だ。


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