[#東洋史] 中国神話系統図|秦楚の歴史|秦が受けた歴史歪曲|道教の虚構性|漢の性質

休み中に私がThreadに書いた文章を移して作成しました。


[#東洋史] 中国神話系統図

私-見解

秦の歴史問題:because, 伯益≠栢翳

2000年の歴史歪曲を受ける人々が本当にかわいそう


[#東洋史] 秦と楚の歴史

秦の始祖以前については、「少皞の苗裔」という主張があるが、秦の歴史書『秦本紀』には「顓頊の苗裔」という主張が一節最初に書かれているため、秦自体は顓頊の苗裔としての認識が強かったと推定される。(では、少皞の子孫という主張は、中国人が最も利益を得る形だから主張するのではないか)

例えば、秦始皇帝の養母は楚人であり、秦の滅亡過程で一時的に楚と楚王室が復活した理由も、秦が楚に友好的だったからである。楚の立場でも、秦に対抗する連合から一番最初に脱退した国は楚だった。

このように両国は複雑微妙な友好関係であったが、現代中国人の祖先集団はこのような隠れた理由とは全く関係がなかった。このような複雑な背景は気にしない中国人たちがこの二国の伝統性を完全に破壊したのである。たまに偽物国が秦、楚という国名を模倣することを除けば、両国は完全に消滅した。この視点から、中国人が秦、楚を継承したと表現するのは無理があることが分かる。

[#東洋史] 秦に適用された歴史歪曲

史書を通じて、秦が経験した中国人による様々な歴史歪曲を確認できる。

『秦本紀』によると、秦始皇帝は莊襄王の息子である。しかし、『呂不韋列傳』によると、妾は呂不韋の子供を妊娠したまま莊襄王に嫁ぎ、彼が秦始皇帝である。『史記』によると、秦始皇帝は長男である扶蘇が帝位を継ぐように遺言したが、趙高が李斯と組んで始皇帝の遺書を捏造し、胡亥に帝位を継がせるように操作したと主張される。しかし、この記録は2009年に発見された『趙正書』竹簡の内容と矛盾している。『趙正書』が発見されたことにより、始皇帝の死に関する『史記』の記録を完全に信頼できなくなった。

秦始皇帝が焚書坑儒を通じて殺した集団は、反乱の危険性がある他国の貴族ではなく、記録を操作していた儒家集団であり、これらの記録を通じて、当時の中国人集団の秦王室に対するガスライティングを確認することができる。このようなストレスに対する反応か、秦始皇帝は息子たちの名前を秦始皇帝の歴史解釈を象徴する方法として使用することもあったようだ。例えば「扶蘇」や「胡亥」。


[#東洋史] 道教を勉強して感じたこと

太極は「老子」の発明でしょうか? いいえ、太極は先史時代から存在していた文様であり、彼が再創造したモノです。例えば、川前里の岩絵、アレクセイ・オクラドニコフのアムル川の岩絵(拓本)収集本、アステカ・マヤ文明でも太極文様は発見されています。太極象徴は元々太陽を象徴する形でしたが、中国で変形して使われ、今日ではほとんど中国の象徴として使われています。

そのため、老子の定義による「陰陽」、「男と女」の意味付けはあくまで主張であることに注意しなければなりません。彼の思想には、「房中術」で仙人になるとか、本当に変な思想が多いと感じました。道教はただ、歴史的価値として勉強するモノで、本気で勉強する考えは間違う考えです。興味で勉強した立場から、なぜ道教が中国から消えたのかが分かる気がします(怪力乱神の崇拝=道教)。無駄な勉強でした😠。


[#東洋史] 漢の性質-1

前に作成した「#東洋史」の文に続いて、漢の建国についてもう一度新しい文を作成します。漢は「統一秦国」の分裂以後、紀元前202年に誕国しました。漢は中国文化圏で「徳」の意味を説明する時に主に登場します。中国文化圏で漢の建国者である劉邦は項羽との戦争で継続的に敗北しますが「徳」を持っているため、最後の勝者になったという美話があります。しかし、その成功が完全に「徳」によるモノだと表現できるでしょうか。

[#東洋史] 漢の性質-2

当時の中国地域に住んでいた民衆の支持は「徳」とは異なる背景があります。当時の権力集団は、楚王家、攻撃を受けていた秦王家、秦を攻撃していた項羽集団と劉邦集団などです。これらの中でなぜ劉邦集団が大衆の支持を受けたのか。秦は焚書坑儒のような酷い統治を行ったため、中国人口の多数を構成するある民族集団に没落しました。楚は正統性を持っていましたが、秦が統一した地域の全体的な主要民族は楚を支持していた民族ではありませんでした。秦と先祖が同じであることも支持しなかった原因の一つです。中国の民衆とそれを構成する民族集団は、帝堯の苗裔を自称していた劉邦と楚覇王の項羽のどちらを支持すべきかを選択しなければなりませんでした。この中で、帝舜に帝位を譲った伝説がある帝堯の苗裔が次善の選択であるという暗黙の認識があったと思われます。同様に、中国南方系の立場から見ても、帝堯の劉邦は許容できる支持対象でした。『史記』の主張とは異なり、『竹書紀年』によれば、帝堯は帝舜に帝位を奪われました。

[#東洋史] 漢の性質-3

このような中国内部民族集団の暗黙的合意の結果、 劉邦が民衆の支持を受け、これを「徳」があったから成功したと単純に表現するのは正しいくない。表現の背景を理解すれば、あの「徳」が模倣不可能な理由を理解できます。

漢の国名は元々中国南部にあった「漢水」から由来します。劉邦の人物描写は独特です。彼は腕が長いという描写がありますが、なぜ漢の帝王に対してこのような変な描写をしたのでしょうか。実はこれは政治的描写です。長臂國の伝説は本来は中国南部の伝説なので、劉邦は自分の外形描写を通じて中国南部民の支持を得るため政治的行為をしたのです。外形描写はある程度は真実が含まれているかもしれませんが、政治的目的の誇張である可能性が高いです。したがって、劉氏漢国は主に中国北部のあの民族で構成され(中国の柢)、南部民族の支持も受けていた形の国です。そのため、元々中国という概念の範囲に含まれていなかった南越地方が漢の時代に安定的に吸収されました。

[#東洋史] 漢の性質-4

そのため、歴代皇帝の冕冠には虫の象徴性が利用されました。『山海経』によると、虫は3つの土から出ます。女媧伏羲圖を使用した高昌国が自分を漢民族と主張したのもこのような理由です。ただ、伏羲の存在性には疑問があります。元々司馬遷の『史記』には「三皇本紀」がなかったが、後世の唐時代に政治的目的によって三皇が歴史に含まれました。中国人の操作例を考えば、その三皇の一つである伏羲の信頼性は低いです。





:上記の内容は 2023-07-24〜2023-07-31 期間に作成した私のThread投稿から引用しました。著作権を徹底に守ってください。

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