イエスの素顔、イエスの「生きた」信仰と偶像崇拝の逆説を中心に考察

 Course Title: 宗教史        Instructor: 上村 敏文

 Academic Year: 2024

宗教史•提出期末レポート


イエスの素顔、イエスの「生きた」信仰と偶像崇拝の逆説を中心に考察

序論

人類の歴史において最も影響力のある人物を挙げるならば、宗教を問わず「イエス」が頻繁に言及される。実際、世界中の数十億の人々がイエスを神聖な存在として崇めるか、あるいは少なくとも重要な教師として認識しており、近代の人権思想や人類愛の形成に彼が与えた影響は計り知れない。しかし、イエスの実像を思い浮かべると、多くの場合、「優しく慈悲深く、常に許しを与える人物」として限定されてしまうことが多い。
しかし、聖書を直接読むと、イエスはむしろ不義に対しては断固たる態度を取り、「鞭を使って神殿での不正な商売を追い払い(ヨハネによる福音書2:15参照)、偽善者たちに向かって『この偽善者たちよ』(マタイによる福音書23:13以降)と厳しく非難」するなど、強い姿勢を示している。

聖書には、イエスがしばしば強い怒りを表す場面が登場する。ヨハネによる福音書2章では、イエスが神殿で商売をしていた人々に鞭を振るい、彼らを追い払う(ヨハネ2:15)。また、伝統や規則に固執する宗教指導者たちに向かい、「偽善者たちよ、お前たちは外見を清めるが、内側は貪欲と放縦に満ちている」(マタイ23:25-28)と厳しく非難している。これは、「無条件の温和さ」だけを想像する通念とは異なり、イエスが「悪に対する怒りも愛の一部」として認識していたことを示している。すなわち、イエスは「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マルコ2:17)と宣言しながらも、その罪を放置することは許さなかったため、罪と偽善を正面から批判したのである。

このようによく世間で知られたイエスの姿とその実際の歴史的姿はかなり異なる場合が多い。 そして今、イエスの「生きた信仰」(ヤコブの手紙2:17)の概念を通じて、彼の本来の姿をより一層深く見てみる。


 「生きた信仰」とイエスの教え

1) 偶像崇拝と「可視的な形」の逆説

キリスト教の伝統において、偶像崇拝は最も禁じられる行為の一つである。「あなたは私のほかに他の神を持ってはならない」(出エジプト記20:3)という戒めが示すように、聖書では偶像崇拝が最終的に人々を誤った道へと導き、滅びに至らせると繰り返し警告している。しかし同時に、聖書にはアイロニーが含まれている。モーセが青銅の蛇を作り、それを掲げた事件(民数記21:8)のように、「目に見える形」を通じても救いが起こる場面が登場するのである。

このように、「見える形は即ち偶像である」とする警戒がある一方で、場合によってはその形自体が人々を救うこともある。今日の視点から見るとさらに逆説的なことに、イエスもまた「目に見える人間」でありながら、教会の伝統は彼を神的な存在として崇めてきた。
では、キリスト教が厳しく禁止する偶像崇拝と、イエスへの信仰は何が違うのだろうか?

結論から言えば、イエス自身は偶像崇拝の弊害を警戒しながらも、人間が偶像崇拝を避けられない本能を持つことを認めた。だからこそ、彼自身が「偶像」となることを選んだのである。


2) イエスという「偶像」? - 偶像を破壊する偶像の誕生

旧約聖書において、神は人々に対し「目に見える形」を作らないように厳格に命じている。出エジプト記のみならず、預言書全体を通じても、金の子牛やバアル、アシェラなどの偶像崇拝がイスラエルを破滅へと導いたと語られている。しかし、その一方で、民数記21章において、神はモーセに「青銅の蛇」を作るように命じる。「噛まれた者はそれを見れば生きる」(民数記21:8)と語られているのだ。
「モーセが蛇を掲げたように、人の子も掲げられねばならない」(ヨハネ3:14)。この節の適切な解釈とは何か? ヨハネによる福音書は、青銅の蛇の事件を引用し、イエスが十字架にかけられることを示唆している。つまり、人々を救うために「掲げられる形」となるイエスの計画を示しているのである。

モーセ五書や旧約の律法そのものは尊重されるべきだが、人間がそれを「文字通り」に固守すれば、それはやがて「死んだ規則」となってしまう(コリントの信徒への第二の手紙3:6)。イエスはこのような「死んだ信仰」ではなく、時代に応じて新しく適用される「生きた信仰」を強調した。ヤコブの手紙2:17では「行いのない信仰は、それ自体が死んでいる」と述べられているが、これは単なる教義や形式的な信仰ではなく、実際の生活の中で実践される信仰を意味する。結局のところ、イエスは単なる宗教的な象徴ではなく、「偶像を破壊する偶像」になろうとしたと考えられる。


3) 偶像から解放されるための計画

「私が与える水を飲む者は、永遠に渇くことがない」(ヨハネによる福音書4:14)。イエスは、ヨハネによる福音書において水をぶどう酒に変える奇跡を起こしたり、井戸端で「私が与える水は、あなたの内で永遠に湧き出る泉となる」(ヨハネ4:14)という比喩を語っている。

これは、単なる「超自然的な奇跡」の話ではなく、「生きた信仰」が人間の内側で自ら作用し、瞬間瞬間の現実の中で適用される「動的な教え」であることを示している。イエスがあえて十字架にかかり、「死と復活」を経験した理由も、彼の言葉が時代を超えて更新され続けるように「永遠に生き続ける」必要があったためだと解釈できる。


結論:生きた信仰と自由

律法や信仰が「固定化された形」となれば、それは人を縛る偶像になりやすい。しかし、イエスが示した「生きた言葉」は、絶え間ない自己反省と他者への愛を求めることによって、真の自由と救済を目指している。
これは、宗教史においても大きな転換点となり、キリスト教だけでなく、西洋思想における人権・平等の概念にも大きな影響を与えた。

さらに、イエスの教えは、当時の西ユーラシア世界において多民族間の憎しみを「愛」という概念を通じて包摂し、多民族を再配置したという点でも非常に驚くべき功績である。決定的な点として、彼は自らを偶像とすることで、他の偶像を置き換えるという世界規模の計画を実行した。そして今日においても、イエスの人間的な姿と共に、「生きた愛」の原理としてその教えは生き続けている。
結論として、長い視点で見れば、近代における西洋の産業革命や文明の成功の根本的基盤は、イエスの思想にあると言える。


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