自殺は正当化できるのか?
Course Title: 日本語B Instructor: 川端 芳子
Academic Year: 2024
Title:自殺は正当化できるのか?
提出日 2025年1月7日
序論
まず、自殺の正当化が不可能だという観点を4つ紹介します。 そして二番目に自殺を正当化する主張に対して反論を遂行する予定です。
本格的な議論に先立ち、自殺の道徳性および合理性に対する論証姿勢について簡単に言及する必要がありそうです。 よく自殺は自殺者の人生ではありますが、人生を奪うという点で価値のある何かを破壊する行為です。 このような破壊を主張する人々には、それに伴う論証責任が与えられ、これは深い思惟を含んでいます。 自殺の正当化を否定する立場では、そのような論証に誠実に答え、反論することが正しい姿勢であることに注意するでしょう。
自殺に関する学術的見解
第一の観点は、簡単に法律的な観点です。 刑法第252条は自殺の意志助力者を不法なものと見ており、憲法第10条の「人間としての尊厳と価値」もまた自殺に対する韓国の否定的認識を代弁すると言えます。 (もしもの反論を防ぐために申し上げますと、刑法第252条は自殺事件(または行為)を不法に見るのではなく、意志助力を不法に扱うことです。 しかし、少なくとも法律的観点から自殺という行為を否定的に認識するという点は確かです。)
または特定国家の法ではない自然法的観点から見れば、「自然法は多様な解釈可能性がありうるが、自殺を自己完成と人類完成のための使命の放棄という理由で断罪するのが原則だ」
第二の観点は宗教、道徳性を重点とした観点です。 優先的に「自殺は道徳的に正しくない」という命題は、自殺しない道徳的責務が存在するという意味に解釈されます。 (上記の命題は「p:すべてを考慮しても自殺は常に正しくない」、「q:自殺しない道徳的責務が存在する」という二つの解釈のうちの一つだ。 p命題は正当防衛としての殺人、戦時の敵軍殺害などの反例が存在する。
「(pVq、~p1/q) = 宣言三段論法」
自殺に対するキリスト教的な反対論を論証した人がトーマス·アクィナスだ。彼は定型化された3つの論拠に分離させました。 「第一に、自殺は自分を保護するのをその目的とする自然的な自己愛(Self-love)に反するもので、自分に対する義務違反だ。 第二に、自殺はその個人が構成員である共同体に害を及ぼすもので、共同体に対する義務違反だ。 第三に、人生は神が私たちに与えた贈り物であり、これを奪うことは私たちの存在期間を決める神の権利を侵害したことなので、神に対する義務違反だ」以外にもロックは「『統治論(Two Treatises of Government, 1690)』でトーマス·アクィナスの論証を受け入れ、人間は神の所有物なので、人間に与えられた自然的な自由は自分自身を破壊する自由を含まないと見た。しかし、このような議論は現代社会を生きていく私たちに大きな説得力を持てないことがあります。」
カントの人間尊厳に基づく義務論的論拠(書名: 倫理形而上学定礎)。カントは生命の尊厳という義務論的論拠に基づいて自殺反対論を展開する。 それによれば、自殺者が自殺に対して提示する準則は、もし生命が延長される期間に快適さを約束するより、むしろ害悪をもたらす危険があるならば、自己愛からむしろ生命を短縮することを私の原理とする」ということだ。 しかし、このような自己愛の原理が普遍的な自然法則になることはできない。 自殺は、他人の生命であれ自分の生命であれ、人間の生命という内在的な価値を尊重すべき道徳的義務に違反するものであるから誤りだ。
そこでカントは、いわゆる人間目的の公式に基づき、次のように結論を下す。 「もし自殺者が苦しい状態から抜け出すために彼自身を破壊するのなら、彼は自身の人格を生が終わるまで耐えられる状態で保存するための手段として利用するのだ。 しかし、人間は物ではないので、単なる手段として使われるようなものではなく、むしろ常に目的そのものとして見なければならない。 だから私は私の人格の中で人間に対して何も処分できないから、人間を不具にしたり、傷つけたり、殺したりすることはできない。」
アリストテレスは個人の福祉や自律性と関連して自殺の不道徳性を説明しない。 ただし、自殺がポリスを不当に待遇することであり、これは不正義だと見た。
現代社会では義務論よりは功利主義的観点がより大きな説得力を備えています。このような現代的傾向を代表するブラント(R. Brandt)は功利主義者でありながらも自殺してはならない一応義(primafacie)義務があると見る。 しかし、彼は自殺の価値と半価値を比較定量するいわゆる貸借対照表式の自殺(balance sheet suicide)という観念を擁護し、自殺が道徳的に正しくなくても個別的に正当化できるという点を強調する
結論
この辺で私の立場を明確に整理しますと、私は人間という理由だけで絶対的に自殺が不可能だという原則には反対ですが、積極的に自殺が肯定する立場ではありません。つまり制限的条件下でのみ自殺は正当化可能です。
さらに、私は実際にどの自殺であれ、私は犠牲の意義が含まれていると判断します。 消防士が、もし自分が死ぬ可能性が高いと知っていても、多くの人を救えると期待して危険を冒す行動は自殺なのでしょうか? 多くの人は、自殺ではなく犠牲だと考えるでしょう。 しかし、このような例はどうでしょうか?
私が最近見た映画では、足の不自由な隣のおばあさんと青年が登場します。 映画の中の世界はゾンビのアポカリプスが発生した状況です。 この時、隣の家のおばあさんは青年に迷惑をかけることを知り、自ら命を絶った後、手紙を残します。 これは自殺なのでしょうか? 犠牲でしょうか?
自然の世界では、自殺はただ人間と少数の知性ある動物だけが実行します。 なぜなら、自殺は今生きている私ではなく、私が死んだ後の未来を知性を通じて考慮して決定する判断だからです。 結局、自殺は私以外の他人のために利益と損害を比較判断して決める「犠牲」の一形態と見ることができます。 ただ、すべての自殺が利他的なのでしょうか? それは違います。 あまりのストレスに疲れて、自分で地下鉄で命を絶つケースもありますよね。 これは他人のために犠牲にするのではなく、自分だけのための犠牲だと言えます。 犠牲になる人間の正常な形態は、自らの身体とつながった精神全般に非常に高貴な価値を与えます。
しかし、しばしば人々の中には自らの身体-精神よりも自らの自尊心、威信、権威を重視する人々がいます。 または本来、人間は知性で他者のためになることができますが、いじめなどによって周りに自分の命を捧げるほど大切な人がいないという考えの厭世主義的な考えに陥ることもあります。
結局、現代社会ではこのような可能性のある人々を「精神病者」と定義します。 現代社会では、すべての人間にとって、何よりも人間の生命とそれに結びついた精神を何よりも貴重な価値と考えることを期待しています。 それが正しいかどうかは批判の余地がありますが、少なくとも社会的効率性の観点からは正しい定義と言えるかもしれませんね。
【参考資料】
自殺の正当化の可能性(韓国語)、<Blogspot>, 2022-04-39, <https://decentpark-into-thevencera.blogspot.com/2022/04/blog-post_3.html>
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