東夷ノ研究 ー中国人の歪みを明らかにするー
東夷ノ研究
ー 中国人の歪みを明らかにする。
東夷とは、古代中国の周辺に住んでいた夷族の総称だ。しかしながら、中国の歴史書や教育において、東夷の存在や彼らの文化に関する情報はしばしば不十分で、また歪められて伝えられることがあります。
本研究では、特に徐福(ジョフク)という東夷の人物を取り上げます。徐福は中国の歴史上、重要な役割を果たした人物ですが、彼の存在や業績については、意図的に歪められた情報が存在します。我々の目的は、徐福と東夷の歴史的な背景を探り、真実に迫ることです。
この記事では、史料の分析や学者の見解に基づき、徐福と東夷に関する新たな洞察を提供します。中国人の歴史操作についての批判的な視点を持ち、歪められた情報を明らかにすることは、より広い視野を持つことにつながるでしょう。
本記事は、中国の歴史や文化に興味を持つ人々に向けて執筆されています。また、歴史の真実を求め、独自の視点を追求する読者にもおすすめです。
東夷
東夷(とうい)は、周代及びその後の中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。
本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島・日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。
秦以前の用法[ソースを編集]
太古の先秦時代、東夷は山東省にあった諸民族を指し、華夏族の起源の一つである。
傳斯年の夷夏東西説によると、夷族は中国人の祖先である[1][2][3][4][5][6]。
中国戦国時代の儒学者である孟子は『孟子』において、「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として[7][8]、舜は「東夷」の人、周の文王は「西夷」の人であると述べている[9][10]。
しかし、『山海經』によると、夷は胡の東側にある。胡は周を意味すると理解される。これは鮮卑族が北周を名称にしたことからも理解される。胡の起源は東北にある。周は胡族と夷族の連合政権なので、広く見れば(夷族に有利に理解すれば)胡の周は「西夷」である。
后羿の伝説は中国で英雄視されている。『左傳』では「后羿」ではなく「夷羿」と表記される。伝説の美化された后羿とは異なり、『春秋左氏伝』の后羿は王を殺し、玄妻を奪う犯罪者である。彼は扶桑で休んでいた太陽の象徴である10羽のカラスのうち9羽を殺した。また、彼は9つの頭を持つ蛇を殺した。
孔子は九夷に住みたいと表現した。これは夷族集団に対する羨望を表現したモノと理解される。しかし、これは後世に「水を渡って夷に行く」という表現に創作される[11]。原文には「水を渡って夷に行く」という表現はない[12]。
史記『秦本紀』は、秦の東にある六国は秦を夷の国とみなしたと述べている[13]。『春秋左氏傳』には楚は夷狄と述べている[14]。
これは蘇軾の『王者不治夷狄論』を通じてもう一度理解される。「是齊晉亦未能純爲中國也 ... 是秦楚亦未至於純爲夷狄也」と述べていることから、先秦時代には一般的に‘‘秦楚’’が夷狄として理解され、‘‘齊晉’’が中国として理解されていたことが分かる。
本来、‘‘秦’’は戎族であり、’’楚’’は蛮族であるが、夷族の歴史歪曲と移民によって、すでに先秦時代から徐々に夷族と歪曲して表記されている。
『秦本紀』によると、秦始皇帝は莊襄王の息子である。しかし、『呂不韋列傳』によると、妾は呂不韋の子供を妊娠したまま莊襄王に嫁ぎ、彼が秦始皇帝である。『史記』によると、秦始皇帝は長男である扶蘇が帝位を継ぐように遺言したが、趙高が李斯と組んで始皇帝の遺書を捏造し、胡亥に帝位を継がせるように操作したと主張される。しかし、この記録は2009年に発見された《趙正書》竹簡の内容と矛盾している。『趙正書』が発見されたことにより、始皇帝の死に関する『史記』の記録を完全に信頼できなくなった。
始皇帝が焚書坑儒を通じて殺した集団は、反乱の危険性がある他国の貴族ではなく、記録を操作していた儒家集団であり、これらの記録を通じて、当時の夷族集団の秦王室に対するガスライティングを確認することができる。
秦の胡亥が李斯を引き裂き殺したのもこのような背景から推測される。なぜなら、繁殖のために歴史を歪曲する李氏のような夷族移民に対して、胡亥の父は秦のために利用したが、胡亥は夷族に嫌悪感を抱いていたと推定されるからである。
秦以後の用法[ソースを編集]
秦以降、黄河文明の担い手であった漢民族は、自らを「華」「夏」「華夏」などと称し、周辺の諸民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼んでいた。
司馬遷の『史記』には「西南夷列傳」という記述がある。遺伝的にバングラデシュとタイの北部は中国系遺伝子の割合が半分以上を占める。
『後漢書』と『說文解字通釋』によると、夷は(中国人の)根本である[15]。
唐は百済を征服する際、新羅の武烈王に「嵎夷道行軍總管」という名前を与えた。百済の滅亡後、唐の「熊津都督府」は今の扶餘縣に嵎夷縣を設置する。これは「嵎夷」と定義することが唐の利益になるからである。
今の中国では、(夷の)后羿伝説は最も人気のある童話の一つである。
このような情況から、中国人が彼らの繁殖のために歴史操作をしたことが確実視される。 なぜなら、本来、中国人は実は夷族だからである。彼らは「秦は夷族の後裔である」と主張して移住し、大きく繁殖した。そして秦を操って中国を統一し、秦を滅ぼす。また、中国人は夷族の名称を本来の九夷の位置から東に移動させ、彼らの繁殖に有利に操作した。
例えば、中国の史書によると、扶餘は「高夷の後裔である」と主張されている。しかし、 『論語』(後漢時代)には橐離国(韓国語:タクリ、中国語:ツオリ)、 『後漢書』には索離国(韓国語:セクリ、中国語:スオリ)、 『魏略』には高離国(韓国語:ゴリ、中国語:ガオリ) と記録されている。 ここで索離國の発音が徐々に高夷に近く歪んでいることが分かる。 これにより、中国人が様々な操作を行ったことを推測できる。
徐偃王と徐福[ソースを編集]
徐偃王に関する最初の記録は『尸子』にある。その記録には「卵生説話」はない[16]。その後、『荀子』、『韓非子』、『史記』の順に登場し、徐々に歪曲され表現される。そして、『博物志』で「卵生説話」が徐偃王の記録に初めて登場する[17]。しかし、『博物志』が書かれた時代を考えば、扶餘神話が中国に紹介された後の記録だ。
中国の記録では、徐福が日本に移住して日本を創造したとされている。北宋の政治家であった欧陽脩が作った『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」という内容がある。しかし、徐福が正確にどこに逃げたのかは、当時の中国人も知らず、日本に渡来したのではないかという推測が後世に広まった。これらの記録によって、中国は徐福が日本に渡来し、日本政権を作ったであろうという漠然とした推測と期待を持っていたことがわかる[18]。韓国は済州島西歸浦市に「徐福展示館」が、日本は佐賀県に「徐福展示館」が、和歌山県に「徐福公園」と「徐福の墓」がある。韓国の巨済市-海金剛、南海郡-錦山、釜山-蓬莱山にも徐福の伝説が残っている[19][20][21][22][23][24]。この主張によると、韓国の南海郡尙州の石刻文は徐福が作った文である。しかし、秦始皇帝26年~28年(BC 221〜219)に「小篆体」が頒行られたので、秦始皇帝37年(BC 210)に失踪された徐福も小篆体を知っていたはずだ。石刻文は統一された書体ではないので、徐福が作ったという主張は事実ではない[25]。同様に古史古伝の宮下文書も信用できない。
現代まで ー 李氏を中心に ー[ソースを編集]
李氏が朝鮮半島から記録された最初の記録は、新羅35代景徳王22年(763年)の記録が最初だ。李氏は紀元前69年の閼川楊山村の村長が始祖だと主張するが、その間700年間、李氏は登場しない[26][27]。『三國遺事』は「壇君王儉」を『魏書』から引用したという。しかし、『魏書』にも、『魏志』にも、書かれている『魏略』にも一致する記録がない。誰かが朝鮮半島に持ち込んだ『魏書』には「壇君王儉」の記録があり、これが当時の朝鮮半島では常識であったことを分かることができる[28][29]。
三國遺事の「李碑家記」では、甄萱は眞興王の子孫である。また本によると甄萱の本姓は李である[30][31]。これによると、眞興王の祖先は李氏という結論が出る。しかし、甄氏の祖先が李氏という主張は韓国の甄氏集団では認めていない。中国の甄氏も李氏の子孫ではない。そのため、700年代から1100年代の間に行われた李氏集団の操作とともに創作された資料と推定できる。これらの資料は李氏朝鮮時代に焚書されたと推定される[32][33][34][35]。遺伝子分析によると、韓国の李氏は600年前に大きく繁栄し、全州李氏の祖先はハプロO2a2b1-M134(O-M117を含む)と推定される[36][37]。
李承休(1223~1300)は『帝王韻紀』で、高句麗は平壌で建国したと主張した。これは1700年代の李氏朝鮮の王の発言でも同様に確認される。高句麗は平壌で建国されたと操作された[38][39]。
韓国では李謁平が新羅を建てたと操作し、越南では『大越史記全書』に李仏子を含むことで李氏を越人として操作し、西夏では李氏を賜姓したことを原因に移民をする。8世紀~14世紀が、このような「李氏に代表される唐系移民者たち」の操作による繁栄期と判断される。
最近の研究により、『桓檀古記』は李裕立が昭和時代に資料を集めて創作した偽書であることが確認された[40]。韓国の大田に李氏が建てた石碑によると、慶州李氏は紀元前117年に慶州で創成した。『三國史記』によると、新羅建国は紀元前57年である[41]。
東夷とよばれた民族・国家[ソースを編集]
後漢書東夷伝によると
- 畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷・嵎夷・藍夷・徐夷・淮夷・泗夷
- 夫餘国・高句麗・東沃沮・北沃沮・粛慎氏(挹婁)・濊・韓(三韓)・倭人(倭国)・百済国・加羅国・勿吉国(靺鞨)・失韋国(室韋)・豆莫婁国・地豆于国・庫莫奚国(奚)・契丹国・烏洛侯国・裨離国・養雲国・寇莫汗国・一群国・新羅国・琉求国(流求国)・日本国・流鬼
【参考 - リンク】:
:本来、日本語のウィキペディアに載せる内容でしたが、ウィキペディアに載せるのは手間がかかるので、著作権保護条を入れてブログ記事として公開します。
【参考文献】:
2) My Blog Post
from: 韓族のハプロ、徐偃王説話、中華捏造 について Youtubeの Comment. Blogspot. Archived from the original on 2022-05-16. Retrieved from 2023-06-11.
from: 比較神話学 - 日本神話は"パクリ"だらけ. Youtube. Archived from the original on 2022-05-16. Retrieved 2022-05-15.
他の説話は分かりませんが、中国の卵生説話は徐偃王説話です。
中国の本、『博物志』には :
徐偃,《王志》雲:徐君,宮人娠而生卵,以爲不祥,棄之水濱。獨孤母有犬,名鹄蒼,獵于水濱,得所棄卵,銜以東歸。獨狐母以爲異,覆暖之,遂沸成兒。生時正偃,故以爲名徐君。宮中聞之,乃更錄取。長而仁智,襲君徐國。後鹄蒼臨死,生角而九尾,實黃龍也。偃王乃葬之徐界中,今見雲狗壟。
偃王既主其國,仁義著聞。欲舟行三國,乃通溝陳蔡之間,得朱弓矢,以已得天瑞,遂因名爲弓,自稱徐偃王。江淮諸侯皆服從偃,從者三十六國。周王聞之,遣使乘驿,一日至楚,使伐之。偃王仁,不忍鬥害其民,爲楚所敗,逃走彭城武原縣東山下,百姓 隨之者以萬數,後遂名其山爲徐山,山上立石室,有神靈,民人祈禱。今皆見存
しかし、『博物志』が書かれた時代は扶余神話が中国に紹介された後の記録です。
徐偃王に関する最初の記録は :
『 尸子』 徐偃王好怪,得怪魚、怪獸,多列于庭. 徐偃王有筋而無骨也
この記録だけです。 中華圏の伝統である歴史捏造能力を見落としていることはないですか?
有名な鲁潜墓志の捏造事件のように、中国人の歴史捏造は伝統が深いです。 徐氏は古代中国の東夷族系の人で、これを中国の秦漢の人々は徐氏が漢の東にあるすべての異民族の祖先だと妄想します。 これが徐福伝説が誕生した理由です。
そして、この妄想に合わせて東の伝説を模倣した記録が『博物志』の徐偃王記録です。
歴史的流れに注意して資料を収集しなければなりません。
3) My Blog Post
from: [Quara] 私の回答 - 紀元前の朝鮮の国土は漢に匹敵したのに現在の体たらくは何故でしょうか?. Blogspot. Archived from the original on 2022-07-11. Retrieved from 2022-06-11.
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