東夷ノ研究 ー中国人の歪みを明らかにするー

東夷ノ研究 

ー 中国人の歪みを明らかにする。

歴史は人々の意識とアイデンティティを形成する重要な要素です。特定の国や文化の歴史は、その社会の価値観や自己認識に深い影響を与えます。しかし、時には歴史は意図的に操作され、歪められることがあります。本記事では、特に中国の歴史操作について探求し、東夷に焦点を当てた研究を紹介します。
東夷とは、古代中国の周辺に住んでいた夷族の総称だ。しかしながら、中国の歴史書や教育において、東夷の存在や彼らの文化に関する情報はしばしば不十分で、また歪められて伝えられることがあります。
本研究では、特に徐福(ジョフク)という東夷の人物を取り上げます。徐福は中国の歴史上、重要な役割を果たした人物ですが、彼の存在や業績については、意図的に歪められた情報が存在します。我々の目的は、徐福と東夷の歴史的な背景を探り、真実に迫ることです。
この記事では、史料の分析や学者の見解に基づき、徐福と東夷に関する新たな洞察を提供します。中国人の歴史操作についての批判的な視点を持ち、歪められた情報を明らかにすることは、より広い視野を持つことにつながるでしょう。
本記事は、中国の歴史や文化に興味を持つ人々に向けて執筆されています。また、歴史の真実を求め、独自の視点を追求する読者にもおすすめです。

東夷

東夷(とうい)は、周代及びその後の中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。(い)。

本来は古代中国の東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、以降は朝鮮半島日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。

夏 (三代)頃の'(本来の夷)
紀元前1世紀頃の東夷諸国。

秦以前の用法[ソースを編集]

太古の先秦時代、東夷は山東省にあった諸民族を指し、華夏族の起源の一つである。

傳斯年の夷夏東西説中国語版によると、夷族は中国人の祖先である[1][2][3][4][5][6]

中国戦国時代儒学者である孟子は『孟子』において、「諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。文王岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として[7][8]は「東夷」の人、文王は「西夷」の人であると述べている[9][10]

しかし、『山海經』によると、の東側にある。を意味すると理解される。これは鮮卑族北周を名称にしたことからも理解される。の起源は東北にある。周は胡族夷族の連合政権なので、広く見れば(夷族に有利に理解すれば)胡の周は「西夷」である。

后羿の伝説は中国で英雄視されている。『左傳』では「后羿」ではなく「夷羿」と表記される。伝説の美化された后羿とは異なり、『春秋左氏伝』の后羿は王を殺し、玄妻を奪う犯罪者である。彼は扶桑で休んでいた太陽の象徴である10羽のカラスのうち9羽を殺した。また、彼は9つの頭を持つ蛇を殺した。

孔子は九夷に住みたいと表現した。これは夷族集団に対する羨望を表現したモノと理解される。しかし、これは後世に「水を渡って夷に行く」という表現に創作される[11]原文には「水を渡って夷に行く」という表現はない[12]

史記『秦本紀』は、秦の東にある六国は秦をの国とみなしたと述べている[13]。『春秋左氏傳』には楚は夷狄と述べている[14]

これは蘇軾の『王者不治夷狄論』を通じてもう一度理解される。「是齊晉亦未能純爲中國也 ... 是秦楚亦未至於純爲夷狄也」と述べていることから、先秦時代には一般的に‘‘秦楚’’が夷狄として理解され、‘‘齊晉’’が中国として理解されていたことが分かる。

本来、‘‘秦’’は戎族であり、’’楚’’は蛮族であるが、夷族の歴史歪曲と移民によって、すでに先秦時代から徐々に夷族と歪曲して表記されている。

『秦本紀』によると、秦始皇帝は莊襄王の息子である。しかし、『呂不韋列傳』によると、妾は呂不韋の子供を妊娠したまま莊襄王に嫁ぎ、彼が秦始皇帝である。『史記』によると、秦始皇帝は長男である扶蘇が帝位を継ぐように遺言したが、趙高が李斯と組んで始皇帝の遺書を捏造し、胡亥に帝位を継がせるように操作したと主張される。しかし、この記録は2009年に発見された《趙正書》竹簡の内容と矛盾している。『趙正書』が発見されたことにより、始皇帝の死に関する『史記』の記録を完全に信頼できなくなった。

始皇帝が焚書坑儒を通じて殺した集団は、反乱の危険性がある他国の貴族ではなく、記録を操作していた儒家集団であり、これらの記録を通じて、当時の族集団の秦王室に対するガスライティングを確認することができる。

秦の胡亥李斯を引き裂き殺したのもこのような背景から推測される。なぜなら、繁殖のために歴史を歪曲する李氏のような夷族移民に対して、胡亥の父は秦のために利用したが、胡亥は夷族に嫌悪感を抱いていたと推定されるからである。


秦以後の用法[ソースを編集]

以降、黄河文明の担い手であった漢民族は、自らを「華」「夏」「華夏」などと称し、周辺の諸民族を「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と呼んでいた。

司馬遷の『史記』には「西南夷列傳」という記述がある。遺伝的にバングラデシュタイの北部は中国系遺伝子の割合が半分以上を占める。

『後漢書』と『說文解字通釋』によると、は(中国人の)根本である[15]

唐は百済を征服する際、新羅の武烈王に「嵎夷道行軍總管」という名前を与えた。百済の滅亡後、唐の「熊津都督府」は今の扶餘縣に嵎夷縣を設置する。これは「嵎夷」と定義することが唐の利益になるからである。

今の中国では、(夷の)后羿伝説は最も人気のある童話の一つである。

このような情況から、中国人が彼らの繁殖のために歴史操作をしたことが確実視される。 なぜなら、本来、中国人は実は夷族だからである。彼らは「は夷族の後裔である」と主張して移住し、大きく繁殖した。そして秦を操って中国を統一し、秦を滅ぼす。また、中国人は夷族の名称を本来の九夷の位置から東に移動させ、彼らの繁殖に有利に操作した。

例えば、中国の史書によると、扶餘は「高夷の後裔である」と主張されている。しかし、 『論語』(後漢時代)には橐離国(韓国語:タクリ、中国語:ツオリ)、 『後漢書』には索離国(韓国語:セクリ、中国語:スオリ)、 『魏略』には高離国(韓国語:ゴリ、中国語:ガオリ) と記録されている。 ここで索離國の発音が徐々に高夷中国語版に近く歪んでいることが分かる。 これにより、中国人が様々な操作を行ったことを推測できる。


徐偃王と徐福[ソースを編集]

徐偃王に関する最初の記録は『尸子』にある。その記録には「卵生説話」はない[16]その後、『荀子』、『韓非子』、『史記』の順に登場し、徐々に歪曲され表現される。そして、『博物志』で「卵生説話」が徐偃王の記録に初めて登場する[17]しかし、『博物志』が書かれた時代を考えば、扶餘神話が中国に紹介された後の記録だ。

中国の記録では、徐福が日本に移住して日本を創造したとされている。北宋の政治家であった欧陽脩が作った『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」という内容がある。しかし、徐福が正確にどこに逃げたのかは、当時の中国人も知らず、日本に渡来したのではないかという推測が後世に広まった。これらの記録によって、中国は徐福が日本に渡来し、日本政権を作ったであろうという漠然とした推測と期待を持っていたことがわかる[18]。韓国は済州島西歸浦市に「徐福展示館」が、日本は佐賀県に「徐福展示館」が、和歌山県に「徐福公園」と「徐福の墓」がある。韓国の巨済市-海金剛、南海郡-錦山、釜山-蓬莱山にも徐福の伝説が残っている[19][20][21][22][23][24]この主張によると、韓国の南海郡尙州の石刻文は徐福が作った文である。しかし、秦始皇帝26年~28年(BC 221〜219)に「小篆体」が頒行られたので、秦始皇帝37年(BC 210)に失踪された徐福も小篆を知っていたはずだ。石刻文は統一された書体ではないので、徐福が作ったという主張は事実ではない[25]。同様に古史古伝宮下文書も信用できない。


現代まで ー 李氏を中心に [ソースを編集]

李氏が朝鮮半島から記録された最初の記録は、新羅35代景徳王22年(763年)の記録が最初だ。李氏は紀元前69年の閼川楊山村の村長が始祖だと主張するが、その間700年間、李氏は登場しない[26][27]『三國遺事』は「壇君王儉」を『魏書』から引用したという。しかし、『魏書』にも、『魏志』にも、書かれている『魏略』にも一致する記録がない。誰かが朝鮮半島に持ち込んだ『魏書』には「壇君王儉」の記録があり、これが当時の朝鮮半島では常識であったことを分かることができる[28][29]

三國遺事の「李碑家記」では、甄萱は眞興王の子孫である。また本によると甄萱の本姓は李である[30][31]これによると、眞興の祖先は李氏という結論が出る。しかし、甄氏の祖先が李氏という主張は韓国の甄氏集団では認めていない。中国の甄氏も李氏の子孫ではない。そのため、700年代から1100年代の間に行われた李氏集団の操作とともに創作された資料と推定できる。これらの資料は李氏朝鮮時代に焚書されたと推定される[32][33][34][35]。遺伝子分析によると、韓国の李氏は600年前に大きく繁栄し、全州李氏の祖先はハプロO2a2b1-M134(O-M117を含む)と推定される[36][37]

李承休(1223~1300)は『帝王韻紀』で、高句麗は平壌で建国したと主張した。これは1700年代の李氏朝鮮の王の発言でも同様に確認される。高句麗は平壌で建国されたと操作された[38][39]

韓国では李謁平が新羅を建てたと操作し、越南では『大越史記全書』に李仏子を含むことで李氏を越人として操作し、西夏では李氏を賜姓したことを原因に移民をする。8世紀~14世紀が、このような「李氏に代表される唐系移民者たち」の操作による繁栄期と判断される。

最近の研究により、『桓檀古記』は李裕立が昭和時代に資料を集めて創作した偽書であることが確認された[40]韓国の大田に李氏が建てた碑によると、慶州李氏は紀元前117年に慶州で創成した。『三國史記』によると、新羅建国は紀元前57年である[41]

現代、韓国の民族主義者たちの主張によると、韓国人は夷の後裔である[42][43][44][45][46][47]


東夷とよばれた民族・国家[ソースを編集]

後漢書東夷伝によると

江蘇省山東省付近(太字は九夷)
  • 畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷・嵎夷・藍夷・徐夷・淮夷・泗夷
中国東北部朝鮮半島日本列島


【参考 - リンク】

  • 1) 傅斯年:《夷夏東⻄說》
  • 2) 歐陽哲生主編《傅斯年全集》七冊,湖南教育出版社出版
  • 3) 方漢⺠〈中國文明本土東部起源說新證〉,中華人⺠共和國《社會科學報》,2012年。
  • 4) 羅驥、鞏紅玉〈論漢族主體源於東夷〉,中華人⺠共和國《雲南⺠族學院學報》,2002年。
  • 5) Andersson, J.G., "Researches into the Prehistory of the Chinese" in Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities, 15 (1943), pp. 29-91 
  • 6) Liu Yao, "Lomgshan wenhua yu Yangshao wenhua zhi fenxi" in Zhongguo kaogu xuebao, 2 (1947), pp. 251-282
  • 7) 孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」 — 孟子、離婁下
  • 8) 王徳威 (2020年3月16日). “基調講演記録 華夷の変 ―華語語系研究の新しいビジョン―”愛知大学国際問題研究所紀要 = JOURNAL OF INTERNATIONAL AFFAIRS (155) (愛知大学国際問題研究所): p. 10-11
  • 9) 韓東育 (2018年9月). “清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現 : 『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで”北東アジア研究 = Shimane journal of North East Asian research (別冊4) (島根県立大学北東アジア地域研究センター): p. 17
  • 10) 杉山清彦“第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史” (PDF). 「正統」の歴史と「王統」の歴史 (東京大学教養学部): p. 6.  オリジナルの2016年9月10日時点におけるアーカイブ。
  • 11) 疏“ 子曰”至“取材”。○正義曰:此章仲尼患中國不能行已之道也。“道不行,乘桴浮於海”者,桴,竹木所編小筏也。言我之善道中國既不能行,即欲乘其桴筏浮渡於海而居九夷,庶幾能行已道也。 — 論語註疏/卷05 (邢昺(932年 - 1010年) 北宋)
  • 12) 子欲居九夷。或曰:「陋,如之何?」子曰:「君子居之,何陋之有? 論語/子罕第九編
  • 13) 孝公元年…秦僻在雍州,不與中國諸侯之會盟,夷翟遇之… — 史記 秦本紀、秦孝公
  • 14) 楚屈瑕伐羅鬭伯比送之還謂其御曰莫敖必敗〈云云〉入告夫人鄧曼鄧曼曰大夫其非衆之謂看此一叚便見得楚之在當時所謂盜亦有道夫楚夷狄之國… — 春秋左氏傳説、卷一
  • 15) 《王制》云:“東方曰夷。”夷者,柢也,言仁而好生,萬物柢地而出。 — 後漢書、東夷列伝第七十五
  • 16徐偃王好怪,沒深水而得怪魚,入深山而得怪獸者,多列於庭。 — 『尸子』、東夷列伝第七十五
  • 17徐偃,《王志》雲:徐君,宮人娠而生卵,以爲不祥,棄之水濱。獨孤母有犬,名鹄蒼,獵于水濱,得所棄卵,銜以東歸。獨狐母以爲異,覆暖之,遂沸成兒。生時正偃,故以爲名徐君。宮中聞之,乃更錄取。長而仁智,襲君徐國。後鹄蒼臨死,生角而九尾,實黃龍也。偃王乃葬之徐界中,今見雲狗壟。— 博物志/卷之七、異聞
  • 18其先徐福詐秦民,採藥淹留丱童老。百工五種與之居,至今器玩皆精巧。— 日本刀歌
  • 19) 西歸浦 文化芸術ポータル、徐福展示館,  (in Korean). Retrieved from 2023-06-11.
  • 20) 徐福長寿館 観光情報 佐賀市観光協会公式ポータルサイト サガバイドットコム [sagabai] (in Japanese). Retrieved from 2023-06-11.
  • 21) 徐福公園|新宮市観光協会 (in Japanese). Retrieved from 2023-06-11.
  • 22) 始皇帝が不老草を探しに出かけた巨済島海金剛 - オマイニュース(오마이뉴스) (in Korean). Retrieved from 2023-06-11.
  • 23) 中国まで有名になった南海金山/ニュース慶南 - 慶尚南道民を代表する日刊紙 (in Korean). Retrieved from2023-06-11.
  • 24) 徐福(徐市) - 釜山歴史文化大展 (in Korean). Retrieved from 2023-06-11.
  • 25) 具滋聖, 「徐福은 南海나 濟州道에 온 적이 없다」, ≪우리上古史硏究會≫, pp.70〜72.  
  • 26) 二十二年,夏四月,遣使入唐朝貢。秋七月,京都大風,飛瓦拔樹。八月,桃李再花。上大等信忠、侍中金邕免、大奈麻李純爲王寵臣,忽一旦避世入山,累徴不就。… — 三國史記/卷09
  • 27) 九年春,改六部之名。仍賜姓,楊山部爲梁部,姓李 … — 三國史記/卷01
  • 28) 古朝鮮〈王儉朝鮮〉 《魏書》云:乃往二千載有壇君王儉。立都阿斯達 〈經云無葉山。亦云白岳。在白州地。或云在開城東。今白岳宮是〉 開國號朝鮮。與高同時。 — 三國遺事/卷第一
  • 29) 박대재 (2001年), 「삼국유사 고조선조 인용 위서론」, ≪한국사연구≫, p.112.  "≪위서(魏書)≫에는 다양한 이본(異本)이 존재했을 뿐만 아니라 서명(書名)만 전해지는 것도 여러 종류이지만, 현재 전해지고 있는 위(魏)와 관련된 사서에는 이러한 내용이 확인되지 않는다".
  • 30) 三國史本傳云。甄萱尚州加恩縣人也。咸通八年丁亥生。本姓李。後以甄為氏。父阿慈個。以農自活。光啟中據沙弗城(今尚州)自稱將軍。有四子。皆知名於世。萱號傑出。多智略。李碑家記云。眞興大王妃思刀諡曰白𪀚夫人。第三子仇輪公之子波珍干善品之子角干酌珍妻王咬巴里生角干元善。是為阿慈個也。 — 三國遺事/卷第二、後百濟 甄萱
  • 31) 李磾家記云。萱有九子。長曰神劍(一云甄成)… — 三國遺事/卷第二、後百濟 甄萱
  • 32) 丙申,焚書雲觀所藏讖書二篋。俗因前朝之習,酷信陰陽拘忌,親死累年不葬者有之。上命朴訔、趙末生坐書雲觀,盡索陰陽書,擇其妖誕不經者焚之。— 朝鮮王朝實錄/太宗實錄/十七年、12月15日
  • 33) 諭八道觀察使曰:「《古朝鮮秘詞》、《大辯說》、《朝代記》、《周南逸士記》、《誌公記》、《表訓三聖密記》、《安含老元董仲三聖記》、《道證記智異聖母河沙良訓》、文泰山、王居仁、薛業等三人記錄、《修撰企所》一百餘卷、《動天錄》、《磨蝨錄》、《通天錄》、《壺中錄》、《地華錄》、道詵《漢都讖記》等文書,不宜藏於私處,如有藏者,許令進上,以自願書冊回賜,其廣諭公私及寺社。」 — 朝鮮王朝實錄/世祖實錄/三年、5月26日
  • 34) 傳于禮曹曰:「《周南逸士記》、《志公記》、《表訓天詞》、《三聖密記》、《道證記》、《智異聖母河沙良訓》、《文泰》、《玉居仁》、《薛業三人記》一百餘卷,《壺中錄》、《地華錄》、《明鏡數》,及凡干天文、地理、陰陽諸書家藏者,京中限十月晦日,呈承政院,外方近道十一月晦日,遠道十二月晦日,納所居邑。納者超二階,自願受賞者及公私賤口,賞綿布五十匹,隱匿不納者,許人陳告,告者依上項論賞,匿者處斬。其速諭中外。」 — 朝鮮王朝實錄/睿宗實錄/元年、9月18日
  • 35) 下書諸道觀察使曰:「前者,《周南逸士記》、《志公記》、《表訓天詞》、《三聖密記》、《道證記》、《智異聖母》《河少良訓》,文泰、王居仁、薛業三人記一百餘卷,《壺中錄》、《地華錄》、《明鏡數》及凡干天文、地理、陰陽諸書,無遺搜覓上送事,曾已下諭。上項《明鏡數》以上九冊、《太一金鏡式道詵讖記》,依前諭上送,餘書勿更收納,其已收者還給。」 — 朝鮮王朝實錄/成宗實錄/卽位年、12月9日
  • 36) 李씨 부계 하플로의 旧O3a2c1-M134(=現O2a2b1-M134)그룹 분석 (in Korean), Retrieved from 2023-06-17.
  • 37) 韓国李氏の父系ハプロとM134李氏系 -1 (in Korean). Archived from the original on 2023-06-12. Retrieved2023-06-12.
  • 38) 扶余國王名金蛙,為開別館相邀迎。五升大卵左脅誕,陰雲之日生陽晶。兒生數月能言語,漸至壯大才豪英。時王太子生妬忌,譖令牧馬驅䮐䮐。王來欲渡蓋斯水,魚鱉化作橋梁橫。漢元立佋二甲申,開國馬韓王儉城。天遣人來立宮闕,山昏谷暗聞丁丁。— 帝王韻紀、下卷
  • 39) 戊寅,召對玉堂官,講《東國通鑑》,至高麗安市城事,上歎曰:「高麗,一小國耳,以善守城名,能抗隋、唐百萬之師。我國地方,比高麗倍之,山川險阻,古今一也,而丙子之亂,虜兵如入無人之地,竟有下城之辱。言念及此,不覺痛心。」 — 朝鮮王朝實錄/肅宗實錄/二十九年、12月7日
  • 40) Jang, Shin (2020). "Yi Yu-rib's Invention of a person named Gye Yeon-su.(捏造記)". Quarterly Review of Korean History (in Korean). 115: 383–416. doi:10.35865/YWH.2020.03.115.383.
  • 41) 大田プリ公園、慶州李氏碑を説明 (in Korean). Archived from the original on 2023-06-11. Retrieved2023-04-16.
  • 42) [ハングルの日特集③】 「漢字は私たちの民族である東夷族が創始した」  (in Korean). Archived from the original on 2023-06-11. Retrieved2023-04-16.
  • 43) <2> 東夷族出身の孔子が作った中華思想 (in Korean). Archived from the original on 2023-06-11. Retrieved2023-04-16.
  • 44) [イ・ドゥクイルの歴史を語る] キム・スロ王は東夷族の皇帝と少昊の子孫  (in Korean). Archived from the original on 2023-06-11. Retrieved2023-04-16.
  • 45) イ・ギフン先生は彼の著書で「古代中国東部文明を形成した東夷族は文字(漢字)、音楽、宗教、礼儀、青銅器などを最初に創造した古代東アジアの先導的な民族であり、私たちはこのような東夷文明の影響を強く受けた国である」と述べた。 (in Korean). Archived from the original on 2023-06-11. Retrieved2023-04-16.
  • 46)  【単独記事】 孫正義ソフトバンク会長、「韓国は中国でもあった」 (in Korean). Archived from the original on 2023-06-11. Retrieved2023-04-16.
  • 47) 中国人の始祖、韓国人であることを証明する証拠がある...。中国博物館にも展示 (in Korean). Archived from the original on 2023-06-11. Retrieved2023-04-16.

  • :本来、日本語のウィキペディアに載せる内容でしたが、ウィキペディアに載せるのは手間がかかるので、著作権保護条を入れてブログ記事として公開します。

    【参考文献】:

    1) My Blog Post

     from: User contributions on Wikipedia (日本語版) - about 東夷 - (23.05.27.土 ~ 23.05.28.日). BlogspotArchived from the original on 2023-05-27. Retrieved from 2023-06-11.

    2) My Blog Post

     from: 韓族のハプロ、徐偃王説話、中華捏造 について Youtubeの CommentBlogspotArchived from the original on 2022-05-16. Retrieved from 2023-06-11.

     from: 比較神話学 - 日本神話は"パクリ"だらけYoutubeArchived from the original on 2022-05-16. Retrieved 2022-05-15.

    my comment: 
    他の説話は分かりませんが、中国の卵生説話は徐偃王説話です。
    中国の本、『博物志』には :
    徐偃,《王志》雲:徐君,宮人娠而生卵,以爲不祥,棄之水濱。獨孤母有犬,名鹄蒼,獵于水濱,得所棄卵,銜以東歸。獨狐母以爲異,覆暖之,遂沸成兒。生時正偃,故以爲名徐君。宮中聞之,乃更錄取。長而仁智,襲君徐國。後鹄蒼臨死,生角而九尾,實黃龍也。偃王乃葬之徐界中,今見雲狗壟。 
    偃王既主其國,仁義著聞。欲舟行三國,乃通溝陳蔡之間,得朱弓矢,以已得天瑞,遂因名爲弓,自稱徐偃王。江淮諸侯皆服從偃,從者三十六國。周王聞之,遣使乘驿,一日至楚,使伐之。偃王仁,不忍鬥害其民,爲楚所敗,逃走彭城武原縣東山下,百姓 隨之者以萬數,後遂名其山爲徐山,山上立石室,有神靈,民人祈禱。今皆見存 
    しかし、『博物志』が書かれた時代は扶余神話が中国に紹介された後の記録です。
    徐偃王に関する最初の記録は :
    『 尸子』 徐偃王好怪,得怪魚、怪獸,多列于庭. 徐偃王有筋而無骨也
    この記録だけです。 中華圏の伝統である歴史捏造能力を見落としていることはないですか?
    有名な鲁潜墓志の捏造事件のように、中国人の歴史捏造は伝統が深いです。 徐氏は古代中国の東夷族系の人で、これを中国の秦漢の人々は徐氏が漢の東にあるすべての異民族の祖先だと妄想します。 これが徐福伝説が誕生した理由です。 
    そして、この妄想に合わせて東の伝説を模倣した記録が『博物志』の徐偃王記録です。 
    歴史的流れに注意して資料を収集しなければなりません。

    3) My Blog Post

     from: [Quara] 私の回答 - 紀元前の朝鮮の国土は漢に匹敵したのに現在の体たらくは何故でしょうか?BlogspotArchived from the original on 2022-07-11. Retrieved from 2022-06-11.


    (2023.06.12.01:41 1次修正)
    (2023.06.13.02:09 2次修正)
    (2023.06.17.19:25 3次修正)
    (2023.06.17.22:46 修正 完)
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